峨眉山の思い出  (4)

もう一度、地図に戻りお話ししたいと思います。                                                          地図に書かれた文字が小さい為、人によっては125%から150%程度に拡大して見られた方が良いでしょう。

左下の麓から夜間ワゴン車に乗り万年寺の停車場(駐車場)迄行き、そこから歩き万年寺迄行きました。                                      他のブログを読むと、万年寺の停車場に行く途中に写真の様な峨眉山への入場口があり、車も人もここで入場料150元/人( 1元を16円として換算すると2400円)を徴収されていた様です。

      私達が登った時は夜間であった為に、営業時間外(入場時間8:00-18:00)で電気が消えていたのかも知れません。                                                                                             車から見る周りは真っ暗で、私には建物すら全く分かりませんでした。          その場所が何処にあるのか地図を探しても良く分かりませんが、地図で黒く大きく曲がった線が車道で、薄青色のくねくねした線が登山道を示している為、特にこの登山道が始まる地点に入場口があると思われます。

他のブログや観光案内を見ていると、一般の観光バスはそのまま登る事が出来ないのかどうか分かりませんが、峨眉山の中だけを移動する専用バスである『エコバス』に多くの人が乗換え別料金のエコバス代として往復70元を払い (金頂近く迄ではなく、峨眉山入口~雷洞坪2430m間)乗車していた様です。

また夜間で分からなかったのですが、地図を見ると万年寺の停車場近くからロープゥエーが設置されていました。                                                                                                 これは、ある程度時間をかけてゆっくり歩いて登山したい人の便宜を図るためや、万年寺を 拝観したら急ぎ金頂へエコバスで登りたい人の為に、設置されたのだと思われます。     参)万年寺専用ロープウエイ代 (山麓万年寺駐車場から万年寺1,000m間):                            上り65元、下り45元   往復110元×@16円/元=1,760円

エコバス終点の「雷洞坪2430m」から次のポイント「接引殿2540mのロープウェイ乗り場」迄は20~30分歩く様ですが、この辺に籠屋が待機しているものと思われます。       「接引殿2540mのロープウェイ乗り場」に着いたら、最後に金頂近くにある金頂大飯店近くにある3048mのロープゥエー駅行きに乗り、やっと頂上迄辿り着くことが出来ます。             参) 金頂ロープウェイ代 (接引殿~金頂間) : 上り65元、下り55元で往復1,920円

私達のワゴン車は、途中でお寺(寺の名前は記憶にありません)に付随して建っている建物で、M社長が経営する土産物店に立ち寄りました。                                 土産物店は、お寺の空いた空間に後から増設した様な建て方ではなく、お寺の敷地内にあっても違和感が無いように、(寺の修復時に合わせて作られたものかハツキリは分かりませんが)  瓦に漆喰を施した平屋の建物でした。

3人の話によると、改修工事中のお寺や閉寺となっていない40~50の各寺院では、全ての寺に併設する形で土産物屋を開いているとの話でした。また特に外国人団体観光客が多いお寺では、国内観光客用と海外観光客用の2つの店を開いているとのことでした。        私は2つの店の両方に入って見ましたが、国内観光客や参拝客を対象とした店は値段が全般的に安いものが多く、また海外観光客を対象とした店は値段が高いものが多い様に、思われました。                                        ただ2店とも同じものを値段を変えて売っている訳ではなく、海外観光客を対象とした店は、外人の好みも把握している事から、外人受けするものを主体に売っていました。      勿論外人観光客に時間があれば、国内用の店に入り購入することも、また国内観光客が逆のことを行い、購入することには制限を設けていないとのことでした。

販売していたものはハツキリ覚えてはいませんが、国内観光客向けには数珠、宝石類、首飾り等比較的小さなものが多かった様な感じでした。                    外人向けには宝石もありましたが、仏像や曼荼羅など比較的大きくて、値段が高いものが売られていた記憶があります。更にドルでの購入も可能でした。

今日成都のマンションに帰る予定のため、余り時間的な余裕がなく、直ぐに車に乗り更に山頂に向けて出発しました。

地図を見ると、車道は接引殿2540m迄しか書いてありませんが、今振り返って見ると、金頂迄はそれ程歩いた記憶が無いため、恐らくお寺や山頂にあるホテル関係者以外は、利用することを禁止されていた車道をそのままワゴン車が登って行ったものと思われます。      最後に車は、金頂大飯店近くにあったと思われる駐車場に車を止め、金頂(山頂)を見学しました。

しかし流石に3000mを越えている地であることから非常に寒く、3人からジャンパーを借りました。                                       その日は朝から運悪く霧も発生していたため、他の多くの観光ブログの様に、象に乗った弥勒菩薩像や近くにある綺麗な2つの寺院や山頂から見た周囲の綺麗な風景等には、出会えませんでした。                                      ネットで偶々(たまたま)見つけたすぐ下の『四面十方普賢金仏』の写真、これよりは多少マシという感じでしたが、視界が数十mという状況だったために、とても100m先がハッキリと見える状況ではありませんでした。

高い山ですので、霧の発生も多く、快晴で山頂から周囲が見渡せるかどうかは、天気予報に注意して登った方が良かったのかも知れません。                     或いは、霧の発生が無い真冬の晴天の日に登った方が良かったのかも知れません。

山頂の最大の見物である『四面十方普賢金仏』には、観光用の解説として以下の様に説明がなされています。

標高3079mの金頂には、高さは48m、重さは660t、もある象に乗った普賢菩薩が金メッキが施され、鎮座している。                               これは阿弥陀仏の48の願望を表現したもので、四面十方は世の中すべてを意味する。    あらゆる人を助けるために、すべてを見渡しているのです。

像に乗った普賢菩薩の真下は、写真の様な阿弥陀仏の立像が安置されているようですが、常時見学が可能かどうかは不明です。

なお峨眉山と金頂の歴史や変遷については、写真の拡大が出来ないのは残念ですが、3ページに亘り書かれていますので、以下のHPを御覧下さい。(日本人旅行者が書いた他のブログより、正確かと思われます。)

http://www.peoplechina.com.cn/home/second/2007-12/04/content_88635.htm

普賢菩薩(ふげんぼさつ)について、ウィキペディアで調べると次の通り書かれていました。

梵名: サマンタ・バドラは、大乗仏教における崇拝の対象である菩薩の一尊。      文殊菩薩とともに釈迦如来の脇侍として祀られることが多い(参照:釈迦三尊)。     法要では四七日の仏とされる。梵名のサマンタ・バドラとは「普(あまね)く賢い者」の意味であり、彼が世界にあまねく現れ仏の慈悲と理知を顕(あらわ)して、人々を救う賢者である事を意味する。・・・・・・・・・

日本では平安中期以降、女性の救済を説く法華経の普及によって、主に貴婦人たちからの信仰を集めた。と書かれており、この為か、女性の普賢菩薩が象に乗っている絵画や彫像も多く見られます。     

京都 勝龍寺普賢菩薩

しかし普賢菩薩像が元々は男性であったのに、大乗仏教が日本に伝来後、やがて女性になってしまうのは、仏教が時代を経る中で分派していくことと無関係ではなさそうです。     即ち、本来は仏の救済の対象外でまた社会的に弱い立場にあった女性を、改めて『女性の救済』という時代の要請を取り込み、当時の新興宗教として信者を増やして行く過程で、次第に変容し、社会に認知されて行ったものと思われます。

普賢菩薩について調べていたら、一目して、結跏趺坐(けっかふざ:仏法に従い座った時の決まった足の組み方)を組み、牙を持つ白いゾウに乗っていたら普賢菩薩だと書かれていましたが、これもどうも日本風の解釈と思われます。

実際に掲載した金頂の普賢菩薩の写真を振り返って見ると、4方向をすべて見ていないので分かりませんが、少なくとも1体は左足を延ばして象の鐙(あぶみ)に乗せています。     金頂の写真の解説では、1頭の象に6本の牙と書かれてあり、写真も何となく3本✕2対ありそうです。

日本の仏教について書いたあるHPには、6本の牙を布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6種類の修行を表すと書いたものがありましたが、金頂の写真の結跏趺坐を組んでいない 普賢菩薩像を目にすると、果たして元々の意味がその通りなのか、多少疑問が生じました。 仮に主語を、悟りを開く前の王子すれば、布施、持戒、忍辱、精進、禅定、智慧という6種類の修行を、悟りを開く前に行ったと解釈出来ないこともありませんが・・・・。     更に言えば、6種類の修行をなぜ6本の牙に託す必要があるのかも、疑問に感じる所です。

また普賢菩薩と象との関係をネットを使いいろいろ調べましたが、結局のところ、良く分かりませんでした。

ただ世界大百科事典の『仏陀の前生物語の一つ〈ベッサンタラ本生〉では,主人公の王子は雨を呼ぶ白象を、隣国の王のまわし者に乞(こ)われるまま布施した(あたえた)ため、自国は雨が降らず困窮し、ついには国を追われる。』との記述があります。             これは、悟りを開く前の話です。                           もしこの話が、6種類の修行の内の布施についてほんの一部分を要約して書いたものであれば、他にも5つの話があることが類推されます。

成田山深川不動堂のHPには、『今からおよそ2500年ほど昔、釈迦族のシュッドーダナ王の妃マーヤ王妃は、ある日、夢の中で天から白い象が降りて来て、王妃の右わき腹に入る夢を見ました。すると王妃が目覚めたとき、お腹には赤ちゃんを宿っており、お釈迦様でした。
象は縁起の良い神聖な動物だと信じられおり、夢は「世界中の人々をお救いになる、偉大な王子が生まれる」という、お告げだったのです。』という記述がありました。

またウィキペディアで仏陀 (ブッダは、「目覚める」を意味するブドゥに由来し、「目覚めた人」という意味) を調べていたら、下記の『即ち釈迦が白象になって母の胎内に入る場面』を描いた粘土板の写真を見つけました。 これも悟りを開く前の話です。

少ない事例ではありますが、普賢菩薩自身が、(恐らく悟りを開く前の)仏陀の姿と考えるのが自然な感じがしています。

日本への仏教の伝来は、蘇我氏が勢力をふるっていた古墳時代後半の6世紀半ばに、朝鮮半島から伝えられた様です。                               その時一緒に普賢菩薩の絵画や彫像が日本に齎(もたら)されていたとしたら、1729年に徳川八代将軍吉宗が、東南アジアから長崎―京都を経由して江戸城に運ばれて来た1頭の像を見るまでの1200年間もの長い間、多くの日本人にとって普賢菩薩の下の象は、神聖な架空の生き物と考えられて来たのではないかと思われます。

        注)一般的に言うと、アフリカゾウは雄も雌も牙があります。アジアゾウ(インドゾウ)には牙がありますが、雌には大きな牙はありません。ですから上の版画は雌です。

象と仏陀の関係がもっとクリアーになれば、スッキリ理解できるのですが、調べても良く分かりませんし、日本では時代の経過とともに、信者向けにあれこれ着色されていることも考えられ、普賢菩薩の本来のあるべき姿が、非常に理解しにくくなっている可能性もあります。

いずれにしても象と仏陀との関係は、仏陀が単に乗り物としての象に乗っただけではなく、もっと別の大きな意味があったこと、これは間違いありません。

(Visited 680 times, 1 visits today)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする