自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い   (6)-A

「四大文明」とは、メソポタミア文明・エジプト文明・インダス文明・黄河文明を指しますが何れの文明もすべて大河の流域に存在しており、エジプト文明はナイル川、メソポタミア文明はティグリス川とユーフラテス川、インダス文明はインダス川、黄河文明は黄河をその存立基盤としていました。

大河の洪水によって、上流から肥沃な土が下流の広大な平地に運ばれることで、実り豊かな農業を継続して行うことができ、この結果多くの人間の生活を育(はぐく)んだと言うことを皆さんと同じ様に、確か中学の歴史で学習した記憶があります。
ただ近年は、黄河文明とその後明らかになった長江文明とを分けて教えられている様です。
そこでここでは、詳細に見ると文明の質は違うものの、黄河・長江文明として「四大文明」
を考えたいと思います。
ただ今考えると、これだけでは四大文明の成立要件とはならない様に思えます。

即ち「四大文明」が発祥した地は、人間が生きていくに欠かせない『鹽(しお)』を得ることが出来る地であること、「四大文明」全てが海に面していたと言う事実が欠落している様に思えます。

長野県に『塩尻』(昔は、塩の旧字を使い「鹽尻」と書いた)いう名の市がありますが、土地の名前の語源として、信州には海がないため塩を生産することができず、日本海から塩売りがやってきていた。各地を廻って売り歩いていると、ちょうどこの近辺で品切れになるため、塩尻という名前がついたという説や、日本海側と太平洋側からそれぞれ塩が運ばれてくると、この辺りで両者が合流することから、塩の道の終点=塩尻という説もあります。        狭い日本でも昔はトラックや貨車等の輸送機関が無かったため馬車で運んだのでしょうが、 塩尻まで鹽を運ぶのは大変だったことが、想い起されます。

この事例を輸送機関が無い時代の中国に当てはめると、幾ら黄河・長江文明が広がっていたとは言え、太平洋の沿岸部から大河を利用して今の四川省辺りまで、舟で河の流れに逆らいつつ、鹽を運ぶことは大変だったと想像します。                     大型の船舶が行き来する現代とは異なり、舟にエンジンが無い時代では、なおさらのことです。馬車を使っての陸上輸送も、かなりの日数を要し、また運搬できる鹽の量も非常に限られていたことでしょう。

地図上で長野県と、三国志時代の諸葛孔明が活躍した蜀とは、面積は違うものの、位置関係では、内陸にあり海に面していなかったという事では、一致しています。
当時の蜀は、日本の1.5倍ほどの面積があり、今の四川省を中心に南の雲南省や貴州省を包む形で存在していました。
蜀は、気候が温和なため農産物の生産に適していた(現代でも主要な農産物である米、油類、綿、麻、サトウキビ、茶、たばこなど、中国で取れるほとんどの農産物の生産高ベスト10に入っている。)ことに加え、『鹽』を魏や呉に頼ることなく自国で生産出来た事も、大国となり覇権を争うだけの力をつけた一つの大きな要素だと思います。

さて「自貢市」は別名『千年塩都』と言われるため、当初私は、商業生産として井戸から鹽水を汲みあげて作る『鹽井』の歴史は、1000年程だと思いました。           一方で言い伝えによるものか、記録によるものか不明ですが、東漢(後漢)の章帝AD76~88年)の頃、自貢地域で井鹽の生産を始めたとも言われます。

これは➀鹽井の規模や生産量、井鹽の流通範囲から判断し、どの程度のものを最初の鹽井とするのか歴史上の評価・判断が異なること、(井戸1,2本では生産開始と言わなかった可能性大) 更に➁当時の井戸の数や鹽の生産量や流通地域を後世の現代で確認や特定することは非常に困難であること、                                                                                                      以上から商業生産を定義して『鹽井』の本当の開始時期を特定するのは、難しいと思われます。

商業生産に限らなく、人々が生きていく為の最低量を確保するという事では、水溜りで野生動物が時々飲んでいたものが塩水だったため、これを人が蒸発させて鹽を作った言う言い伝えもあります。

また「自貢市」という限定した土地ではなく、「自貢市」を含んだ四川盆地として見ると、「四川盆地での鹽井生産の歴史はとても長く、・・・今から4500年ほど以前の新石器時代まで遡ることができ・・・」重慶市や成都市では鹽業遺跡が発掘されています。(「四川盆地における古代の鹽業技術(白九江著、水盛涼一訳」の部分要約)
ですから自貢市の『鹽井』の歴史も、本当は4500年程前ということだと思われます。

今から4500年 (BC2500年) 程前と言うと、現在判明している中国最古の夏王朝(BC2000~
BC1600)や次の殷王朝((BC1600~BC1000)よりも、古い時代という事になります。
エジプトのフク王やカウラ王のピラミッドが建設された古王朝時代(BC2700~BC2200)にも匹敵するほどの古い時代であるにもかかわらず、ずっと近代に至る迄四川盆地で『鹽井』として利用され文化として残って来たという事は、世界の遺跡の中でも非常に稀有(けう)なことだと考えます。

四川盆地での鹽水を採取する方法としては、天然の湧き水である鹽泉と、井戸を掘削して鹽水を汲み上げる方法と、鉱石を煮出して鹽水を作る方法の3通りがありますが、最後の鉱石を煮出す方法は余り盛んでは無かった様です。
また汲みあげた鹽水は、単に運んだ鹽水を溜めるだけの原鹽池と、鹽水から鹽を取り出す為の前工程として灰汁(あく)等を加え不純物を除く鹽水濃縮池の、2通りがあった様です。(「四川盆地における古代の鹽業技術(白九江著、水盛涼一訳」の部分要約)

自貢を含む四川盆地での鹽井の歴史は、今から4500年程前という事は分かりましたが、 その後の鹽製造の技術的な進歩の歴史についても、幾つもの発掘の中で研究者が『鹽かまど』の遺跡を見つけたり、遺品を調査したりして、研究を重ねて来ました。

ここで突然鹽井の話から離れ、毛沢東の時代に話が飛びますが、

国民党を放逐した後、共産党主席に就いた毛沢東は、1958年大躍進政策(1958年から約3年間、中華共産党が施行した農業・工業の大増産政策。具体的には毛沢東は、向う3年間に経済規模でアメリカ合衆国・イギリスを凌駕することを目標とした。)を実施しました。                                        しかしその結果は、過大とも言えるノルマ設定が国内経済に大混乱を引き起こし、更に数千万人規模の餓死者を出す等大失敗に終わりました。                    結局、毛沢東は政策失敗の責任をとるかたちで、国家主席を辞任しました。

その後は劉少奇国家主席や鄧小平総書記などが、資本主義を一部取り入れた修正主義的路線による経済再建を目指しました。

しかし毛沢東は自らの復権を画策し、政敵を攻撃させ失脚に追い込むため、1966年5月から10年間に亘って繰り広げられた熱狂的な大衆政治運動である『文化大革命(別名: 無産階級(プロレタリア)文化大革命)』を発動しました。
学生運動を扇動し「造反有理 (謀反には道理がある)」を口々に叫んだ紅衛兵運動に始まり、 指導者の相次ぐ失脚、毛沢東絶対化という一連の大変動の中で、各地の知識人や旧資産家層までが投獄されたり殺害されたりしました。                       この「文化大革命」による犠牲者の合計数も、数百万人から数千万人とも言われています。

話を鹽井に戻すと、

紅衛兵運動による知識人叩きにより、四川盆地の鹽井について書かれた論文、文献、発掘品等が飛散・紛失したばかりでは無く、研究者も多くが投獄や殺害されたことから、鹽井の歴史的な研究も大きく後戻りしたと言われています。

元来鹽の製法は、秘密を守るため長きに亘たり、ごく限られた人々の間でのみ伝承されて来たことから、鹽井についてある程度分かっているのは、当時の状況が確認できる写真や、更には口伝てに事実として残せる情報(親子3代、即ち過去に遡ること200年間位が限度と思われる。)程度に、限られるのではないでしょうか?
ですから4500年もの鹽井の長い歴史の中では、仮に文書として保存されたものがあったとしても、明らかな事実はごくわずかだと思われます。

言い換えると、『 井鹽に関する歴史の殆どが、光が当たらない暗闇の中に眠っている。』と言っても良いでしょう。

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