自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い ( 6 )- E

製 鹽 (鹽づくり)

明時代(1368年~1644年)に造られた竈(かまど)の前に立つ工場監督者らしき人物

の写真で1930年前後と思われる。1人は鞭(むち)の様な細い棒を手にしている。真ん中の坊主頭の人物は、身なりもきちんとしているため、役人と思われる。竈(かまど)の燃やし口が大きい為、この工場は天然ガスが使用されていなく、木材や石炭(但しいつ頃から中国で燃料として天然ガスや石炭が使われ始めたか?)を燃料にしていたものと思われます。         写真の状況からして私には、当時製鹽の為に、明代の竈を稼働させていた様には思えません。また写真では、もう1名足だけ見える状態ですが、これらの人がそこで何をしようとしていたのかは、分かりません。

※その後、天然ガスの使用時期について調べたところ、『唐(618-907年で日本では、飛鳥~平安時代)・宋(960-1279年で日本では平安~鎌倉時代)代には塩井戸から噴出する天然ガスを、くみ上げた塩水を煮沸する燃料に使い始めた。』という記述もあれば、『三国の蜀代(221~263年で日本では弥生時代)に使い始めた。』という記事もありました。       これらの年数を最大限に伸ばすと、221年~1279年という事になり、実際の所は良く分からないと言うのが本当の所ではないでしょうか。

また天然ガスの井戸は、鹽井と比較する呼名で『火井(かせい)』と呼ばれていた様です。

上質の井鹽を作り上げる技術は、代々血縁者のみに継承され少しずつ改良されて来た脈々たる歴史に拠るところが大きいのです。                                                                             この血縁者だけへの技術伝承は、

『交通事故と怪我の治療 』で書いた中医の記述 (「何代にもわたり漢方薬を使った治療をして来ているため、他の中医とは比較できない程、沢山のノーハウを持っている人だ。」)や 『ビジネスシーズを探す旅 (1)』の景徳鎮の陶器博物館での陶芸家の話(陶工の代々陶芸の家系で受け継いだ技術があるため、1代限りの陶芸家とは作り上げる物が違うとの説明) と

相通じるものがあります。

即ち特定の人だけが技術を受け継ぎ、他の追随を許さない独占的な技術であるだけに、周囲に広く製鹽技術が浸透していく事を意図的に長い時間、阻害した歴史でもありました。(このことは現代の鹽井の研究者にとって、製鹽技術の歴史を遡(さかのぼ)って研究することは、空白が多く大変な作業だと思われます。)

しかし時代を経るに従い中国国内の需要に応えるためには、どうしても大量生産をせざるを得なくなり、血縁者に限った技術共有では対応しきれなくり、労働者の増員が欠かせなくなりました。                                       そこでより範囲を広げ、1907年工場経営者や労働者は『財親会』という組織を作り、一番大事な製鹽技術の指導は、会員に限定することを決めました。そこで当然ことながら、このルールに違反した者は、罰を受けることとなります。

また1937年の日中戦争が勃発する頃、国民党政権当時の鹽業を管理していた自貢の役人は、 同様に鹽製造の秘密を守らせるため2つの組織(組織名省略)を作り、工場労働者の採用時のチェックや労働者の秘密保持に当らせました。

今日ではほとんど姿を消した鹽井と天然ガス井の、歴史上最初の井戸から1900年代半ば迄の間に掘られた井戸の合計は、13000井以上と言われています。当時(1900年代半ば)自貢では、何処でも井戸が見られました。

工場の作業員が鹽水を、特大の水桶に入れて運び上げている写真1            左側に竹管が僅かですが2本程見えますので、地下から汲み上げた鹽水を他の製鹽工場へ  ここから送っていると思われます。                          人の胴回りから判断して、背負っている2つの水桶が如何に大きいかは一目瞭然です。   本には水だけで190Kg運び上げたと書かれており、信じ難い重量です。

鹽水の汲み上げ作業2

重労働で汗が出ることから、まっ裸で水車を足踏みしながら、鹽水を汲みあげている。

鹽水の汲み上げ作業3,4

前の写真と同様に、工場内での塩水の汲み上げを手分けして行っていた。服を着ている人間は、監督者と思われる。                               作業が重労働で汗が出る為、フンドシ1枚の裸で仕事をしている。            ただ限られた写真のため、具体的な作業内容の把握は困難です。

戻って一番最初の写真を御覧下さい。明代(1368年~1644年)の竈(かまど)がそのままの形を保ちつつ、以後300年近く後迄使われたとは思われません。               私が想像するに3と4の写真は、既に天然ガスを燃料として使っていたと思われるので、明代より高さが低い竈(かまど)に鹽水を入れる時、こぼれる事なく入り易いように木の桶の側面に似たものを取り付けたのではないかと思われます。                    この写真は、写真の存在からして1900年代初め頃に写したものと思われます。     写真を良く見ると労働者達は、大きな竈の周辺に取り付けられた木や石の足場の上で、作業していたものと思われます。

以上の4枚(1~4)の写真は、『鹽水の汲み上げ』を撮ったものですが、鹽の製造工程の中でも特に重労働の仕事であり、体の変調や骨の奇形を齎(もたら)したとの記述があります。

鹽を製造する過程で、不純物を除去するため、豆乳を釜に入れている写真         写真には一列に幾つもの釜が並んでおり、この事から天然ガスを燃焼させて水分を蒸発させていたと思われます。                                 (『自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い  (4) 』の写真でも明らかな様に私が『燊海井(センハイジン)』を見学した時も、私が撮った下の写真の様に、同じ様に釜が並んだ光景を目にしましたので。)    

私達が井鹽と言うと、製造された鹽は1種類だと想像しますが、大きく分けただけでも実に9種類もの鹽が本には書かれていますし、更に鹽の粒の大きさによって細分されています。   細かな製造方法、釜の種類等によって出来上がる鹽の種類も大きく異なる様です。     そこで当然の事ながら、味も様々で売値も大きな差がありました。

例えば日中戦争当時自貢を管理していた鹽務管理局は、粒が大きく製造に高度な技術を要する鱼籽盐(イュザィエン)は、人工とエネルギーを使い過ぎ経済的に合わないと言う理由で製造するのを止めさせて、代わりに巴煎花(パーチェンホウ)という鹽を、作らせたりしました。  ですから今日観光用や漬け物用として生産している井鹽は、昔の沢山の井鹽の種類からすると、ごく僅かの種類でしかないものと思われます。                   というのも、経済性の問題、後継者の問題、設備更新がなされない等の理由から、後世への製鹽技術が伝承されて来なかった鹽も多いと思われます。

(釜と書かれていない。鍋は釜よりも浅い上に、釜の様に普通かまどにのせかけるための鍔(つば)は付いていない。 )から純度が高い固まった井鹽を取り出している写真

井鹽の純度を高める過程で、不純物は長年ゴミ扱いで、利用されないで捨てられて来ましたが、20世紀に入り、副産物の一つ苦汁(にがり)が豆腐を固めるために、またかん水が麺製造に使われました。                                  他に畑の肥料としてや、壁材となる石灰に混ぜることで壁の強度を増す補強素材として使われゴミが利益を生む商品になりました。

自貢の鹽業労働者は、労働条件や労働環境が劣悪な中、重労働に苦しみ、低賃金の貧乏生活を余儀なくされました。一度鹽造りが始まると、労働者は殆どベッドで就寝することは無かったと書かれています。

上の写真。夏は籐で編んだ籠に寄りかかり、1枚の平べったい板(名前は『睡板』)の上で仮寝をしていた。しかし枕も、蚊を防ぐ蚊帳も、シーツもない。               重労働に加え、この様に疲労を回復出来ない寝方をしていたら、身体を壊すことが容易に想像出来ます。

冬は、下に藁を敷いて、薄着で寝ている。竹の表皮で編んだものが、頭上と写真上方に見えるが、風を防ぐ為に間仕切り代わりにしたものか ??

昔と現代とでは、平均気温も差があると思われますが、冬で一番寒い1月の気温が7.6℃夏で一番暑い7月の気温が26.9℃となっています。日平均気温で見ると、日本より寒暖の差は少ない様です。

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