【黄さんのビジネスと周囲の人々】1.黄さんとの出会い

2009年春に桂林に来て、仕事以外で最初に友人となった人は、黄さんでした。

今、黄さんとの付き合いを思い出しても、黄さんのビジネスの目を見張る成長ぶりは、中国の高度成長とかなりの重なる様ですし、富めるものは得たお金で、より多くを求め、富むことから置いてきぼりをくった人は益々やせ細る姿を目にしました。

桂林に三里店という場所がありますが、私はここから歩いて20分ほどの五里店という所に住んでいましたが、五里店は店も少ないため、時々三里店の店で食事しました。

私にはどの店の料理も口に合わず、通りがかりで入った定食屋で何を注文しょうかと迷っていた時、彼に後ろから日本語で声を掛けられました。

彼は、私のしぐさや服装から日本人と分かった様です。                 一緒に食事しながら、彼が実習生として日本で働いていた当時のことを話してくれました。

彼は一番最初、桂林市の姉妹都市だった熊本に行き、蒲焼用に長包丁で養殖ウナギの内臓を取り去り開く仕事をしたそうで、熊本の後には鹿児島で仕事をしたとのことでした。     短時間で蒲焼用に開くのだったら、誰にも負けないと自慢していました。

最後は、東京の銀座でクラブやスナック等の店の内装工事をしたとのことで、クラブのママさんとも親密な仲になったとの話でした。

余談ですが、彼の名前は、黄 玉強と言います。

玉が強いという名前からすると、精力絶倫 ? など変なことを想像しますが、中国では両親が、自分の子供が壮健に育つように、子供が将来経済的に困らない様に、祈りを込めて健康やお金や宝石にちなんだ名前を付けることも多い様です。                 ですから玉(ぎょく)は、ヒスイの宝石即ち経済的な豊かさを意味し、強(きょう)は、強く逞(たくま)しく育って欲しいと願う親の気持ちの顕れと考えられます。

彼が桂林に戻ってきて、まだ2年もしない頃、私は彼と出会った様です。彼は当時独身でしたので、年齢は30歳前だったと思います。

最初に会って食事し終わった後、彼は二輪バイクにリアカーを付け、そこに沢山の植木鉢を乗せていました。彼が中国に戻って最初の仕事は、植木のレンタルだった様です。

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