桂林市興安(シンアン)県には、私が成都に移る前に桂林のショールームで共に働いていたハンさんという人がいましたが、私が成都に転職した後に、職場を辞めた様でした。
日本に一時帰国する際、広西省の省都である南寧を案内して呉れたショールームのイ(葦)さんと一緒に、日帰りでハンさんと会い興安を案内して貰うことになりました。
イさんについては、『競人、この言葉分かりますか? | 中国の面白い出来事 (spacebank.jp)』に、詳しく書いていますので、こちらをご覧ください。
ハンさんは、温和な感じの控えめな25歳前後の女性で、既に結婚しており、生まれて間もない赤ちゃんと実家で生活していました。旦那さんは、都市の名は聞き忘れましたが、桂林から遠く離れた地で出稼ぎ労働者として、働いているとのことでした。
地図で見ると、興安は桂林の中心部から70~80Kmの距離にありますが、今思い出すと出かけたのは、6月又は7月の雨季だったと思います。
途中泥濘(ぬかるみ)だらけの無舗装道路もあったため、バスは左右に大きな揺れを感じつつ、片道3時間近く要しました。
彼女が最初に案内してくれたのは、興安県の霊渠(れいきょ)でした。 桂林市興安県の霊渠(れいきょ)は、2200年余りの歴史を持つ世界で最も古く、最も保存状態の良い人工運河の一つです。
全長は約37キロで、分水塘、南渠、北渠の三つの部分に分かれており、鏵堤(かてい、大天平、小天平)、南渠、北渠、両岸の付属建築物からなります。
霊渠の北渠と南渠を分ける人字壩(人字型の堤防、2019年6月18日撮影)。(c)新華社 News 私達がいた場所は、恐らく秦堤の先端で小天平近くから华嘴迄の分水堰を見ていたと思われます。
中国新華社のニュース記事では、次の様に書かれていました。
霊渠は水門、堰(せき)、ため池などを一体化した多機能の水利システムで、水上輸送やかんがい、水利、水防、給水など幅広い用途を持つ。中でも陡門(とうもん)は、現在の*閘門(こうもん)の原形となった。霊渠は地元の重要な農業灌漑設備として今でも使われており、2018年には世界灌漑(かんがい)施設遺産に登録された。
この中でも水門は、みなさんがご存じの言葉だと思います。それでは*閘門(こうもん)とはどのようなものでしょうか。
ネットで調べると閘門は、運河・放水路などで水量を調節するための水門でもあり、水位の高低差の大きい運河や河川などで、船舶を通過させるために水を調節する役割もあると書かれていました。
更にウィッキーペディアに書かれた幾つかの霊渠の説明を要約すると、次の通りです。
秦の始皇帝が築いた霊渠(れいきょ)は、長江右岸の支流の湘江と、珠江(香港とマカオの間を通って南シナ海に注いでおり、河口の三角江は海のように広く、デルタ河口の東の香港から西のマカオまでは高速船で約1時間かかる)最大の支流である西江へと流れる漓江(全長は426キロメートル。水質は澄んでおり、両岸の景色は風光明媚、特に桂林から陽朔に至るまでの景観は名高く、国家重点風景名勝区に指定されている。 )とを結ぶ運河である。
霊渠は、紀元前221年に建造開始、紀元前214年に完成。36の水門で水位を調節するという高度な技術が施された灌漑施設である。全長33.1キロメートル、西にある漓江と繋がり海まで到達している。南越(中国南部からベトナム北部にあった王国)征服のために始皇帝が築いた。
もとは秦の軍事物資の運搬用として建造されたもので、所在地は桂林市興安県にあり、現在も運用されている。
秦(紀元前905年 – 紀元前206年;日本では縄文後期~弥生中期頃にあたる)は周代・春秋時代・戦国時代の3時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡とウイッキペディアに書かれていましたので、統一後わずか15年(統一時の首都は咸陽)で滅亡したことになります。
始皇帝が全土統一した年(紀元前221年)に、霊渠の建設工事が始まっていることから、多額の出費を伴ったであろう霊渠の建設工事も、秦の滅亡を速めた一因となった可能性もあるかと思います。
しかし驚くことに、国としては700年余り存続したことになりますし、今の桂林市は、秦の始皇帝が征服して桂林郡を設置したのが始まりです。
ネットで調べた結果、現在の咸陽市と西安市とは直線距離で22.5Kmと出ていましたので、当時の秦の首都咸陽と長安(現在の西安)との距離も、20~30Kmと思えます。
上の地図を参考にすると、桂林と西安の直線距離は、1000km前後(日本だと札幌市と静岡県沼津市間)かと思われます。
私が霊渠(れいきょ)に行った頃は、雨期でもあり、水量が豊富で轟音を立てて河が流れていたのを思い出します。
私が行った時は、以下の2番目の写真以上の水量でした。ですから危険すぎて、写真の様に、とても河を歩いて渡れる様な状況ではありませんでした。
小雨が降ったり止んだりする中、堰から多少離れた所にある中洲の小島には小舟で渡りました。小島に着いてみると、河の水が一体どちらからどちらに流れているのか、河幅も広い上、河の対岸も、繁茂する中洲の背が高い葦などの植物に遮られて、全く見えませんでした。 河の蛇行が複雑な為か、轟音は右手からも、左手からも聞こえる状況でした。
それにしても紀元前200年頃に始皇帝が、僅か7年の歳月で長さ30kmを優に超える(33.1kmと37kmの異なった数字がウィッキーペディアに書かれている)大規模な運河を作った事に驚かされます。9時間近く歩き続けてやっと運河の片側を歩いたことになる訳ですから。
(乾季の頃)
(雨期の頃)
霊渠(れいきょ)を観た後はイさんと一緒に、ハンさんが暮らしていた旦那さんの実家(農家)に行きハンさんの赤ちゃんにも会いましたが、格別ここに書くことも無いため、省略致します。
帰路につくため興安(シンアン)の中心街へ移動しましたが、以下の写真の場所を通りました。
この様な小川沿いの風景は、この地が特別と言うことではなく、中国では比較的多くみられる風景です。
しかし都会の大通りの道路一杯に車が満ち溢れ、クラクションの音等の車の騒音で満ち溢れた世界からすると、全く異次元の静寂な世界に来たようで、ホッとした気持ちになります。
即ち小川が細く長く延々と連なり、そこには時間を忘れさせる程ゆっくりゆっくりと水が流れており、小川の川幅が10m程の両側には、落ち着いた雰囲気の物販店,飲食店等の店が軒を連ねています。
その内の1つの店に入り、3人で遅い昼食を取りました。個室の部屋の壁には、私自身今迄食べたこともないハチの巣の料理の注文も出来そうでしたが、当日は蜂が入荷していないと言うことで、蜂の巣の料理は諦めざるを得ませんでした。
中々日本からの観光客が行けそうな場所でも無いため、始皇帝の造った運河の一部でも直に見れたことは、幸運でした。
つい最近(2024年9月)に霊渠のUチューブを見つけましたので、ここにアドレスを貼り付けます。https://www.youtube.com/watch?v=AIaDGgWHAok
解説が無い無音の動画ではありますが、こちらを見て頂ければ、よりご理解しやすいかと思います。
特に霊渠の北渠と南渠を分ける人字壩(人字型の堤防)は、動画開始より17秒後にご覧頂けます。