自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い (6)-F

鹽の取引

清の光緒帝(こうしょてい 在位:1875年 – 1908年)の頃迄は、井鹽の生産者に販売と管理を任せて、役人が井鹽を集中管理することをしませんでした。
その後の中華民国統治の時代に入っても、生産者の申告による井鹽の生産量を基に納税額が算定されたことから、過少申告による脱税が横行しました。

1914年、自貢を含む四川地域では、井鹽の管理を強化する為、鹽の監督署と出先機関を設けました。経営者に対し各工場内の井鹽倉庫を拡張させたり、またそれとは別に官営倉庫を作ったりしましたが、鹽の管理自体は役所が実施し、工場経営者の管理から離れてしまいました。


天秤計りを使い鹽の重さを計測

靴を履き、イスに座った役人と思われる人物が計測している。              写真の写りが悪いのですが、良く見ると左端の草鞋(わらじ)を履いた男性の前に鹽を入れた袋と思われるものが、細い棒(鉄の棒?)に吊り下げられています。もう一本、細い棒と平行に走っている丸太には、細い棒を支える支点として、分かり難いのですが、ひもで繋げてあります。(写真の左側から数えて2人目の頭上)                                                                          ただテコの原理とは言え、分銅の大きさが計ろうとする袋の大きさと比べて、少し小さい気がしますので、写真では写ってはいなく、細い棒の右端にもう一つ分銅があるのかも知れません。と言うのも、分銅を吊るした位置から先の細い棒の状態をよく見ると、少したわみが見られるからです。

特に官営倉庫が出来た後は、管理が非常に厳しくなり、工場で生産した鹽は、役人立会いの下、決まった所で毎日製造した鹽の量を計測した後、所定の倉庫に入れることが制度化されました。                                       そして入庫した鹽の量を一定の期限までに鹽の監督署に報告しないと、私鹽(私欲の為の脱税)として処罰されました。
官営の倉庫はもちろんですが、工場内の倉庫であっても、出先機関の役人が施錠と封印(合鍵での開閉防止の為)をしました。                             即ち工場の経営者達は、自由に倉庫の中から、鹽を出し入れすることが出来なくなってしまいました。


規模が大きい官営の鹽倉庫                              良く写真を見ると井鹽の運送に馬車が使われています。
鹽の生産量が増えるに従い、官営も工場主の倉庫も年と共に、倉庫が大きくなっていきますが、上下の写真は、規模が大きいと思われる写真だけを選びました。それにしても、上の写真の人物の大きさからして、かなり大きな倉庫であることが分かります。


工場経営者の持つ鹽保管倉庫の一つ

工場主の倉庫の鹽と官営倉庫の鹽とは、それぞれの管理区分が良く分かりませんが、役人の考え方の違いなどで、場所場所によって管理方法が違っていたのかも知れません。(余談ですが、私が中国銀行に口座を開設した際、同じ支店でも桂林と成都では、使用伝票も開設方法も全く異なっていました。普通預金の金利さえも異なっており、とても同じ銀行の支店とは思えませんでした。こういう事実からして、当時も管理方法は現場の役人のやり方はマチマチだったのではないかと思われます。また当時も今と同じく、役人への賄賂も横行していたでしょうから・・・・。)

当時自貢では、工場で製造した鹽の大半を官営倉庫で保管し、役人が先導して他の省へ売却していた様です。(という事は、先に役人が自貢で生産された大半の鹽を直接販売した後で、税金分を引去り工場経営者へ残りの金ないし鹽を渡していた可能性が大きいのではないかと思われます。)

更に工場経営者が役人に知られない様に密かに蓄えた井鹽を闇で横流しして販売すること、 即ち脱税を防止するため、役人管理の下、以下の写真の門のにも書かれている『鹽垣』(鹽市場)を設立しました。ここでは、他の省へ売却しないで残った鹽や工場生産者が所有する鹽を、鹽の卸し屋を通じて、地元や近隣の人々を中心に販売させました。

写真にある『大攻(中国語は攻の左が土ヘン)堡鹽垣』は、自貢で最大規模の取引市場で、鹽店が沢山ありました。                                 自貢内では、この様な市場が1929年には59ヶ所、1930年には69か所にもなりました。

取引市場内の鹽の露店売の写真                            竹かごの中のコンクリートや岩を砕いた様に見えるのが、井鹽。

取引市場内の鹽の販売店の写真                            雨が降っても販売できる様に店舗を構えているが、露天商とは異なり、それなりの賃料を監督する役所に支払っていたものと思われる。鹽の竹籠の網目も細かいので、露天商が販売していた鹽とは異なって粒の鹽を販売していたのではないでしょうか?

鹽の取引に関わる裁判風景
1938年4月に撮られた写真と書いてあることから、左側一番奥の人間は、国民党の軍人と思われます。しばしば海外で金鉱などが見つかると、採掘場所へは全世界から一攫千金を求める人々が押しかけて、無法地帯となると言われますが、当時金と同様の価値があった鹽に関するトラブルは、昔から絶えなかったと思われます。                   ですからこの様に裁判官を置いて、トラブルを解決していたものと思われます。

(Visited 187 times, 1 visits today)

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする