自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い (6)-D   (11/6,7 加筆・修正 )

大型機械の導入

18世紀後半(1750年以降あたり)からイギリスで産業革命が始まりましたが、蒸気機関も年を追うごとに効率の良い機関が開発されました。

イギリスからの海外向けの輸出がいつ頃始まったかは不明ですが、おそらくイギリスの直轄地だった香港辺りから、イギリスの蒸気機関の情報が自貢に齎(もたら)されたものと推測致します。

特に日中戦争(1937年~1945年)が勃発し、沿岸部から鹽の供給(含む輸入鹽)が途絶えがちだったことと、国民政府の井鹽からの税収増を図るため,自貢の鹽工場の生産量を増やす必要性に迫られました。                                 そこで従来の人力と牛力で鹽水を汲みあげる伝統技術では対応できないことから、高効率の塩水を汲みあげる機械の導入に踏みきる工場が増えて来ました。

当時の工場経営者や自貢市は資金力が豊富であったため、以下の写真の設備を海外から導入し、生産量を飛躍的に増加させました。

因みにネットでは、香港と成都間の直線距離は1350Kmと書かれていますので、成都の南東に位置する自貢と香港間の直線距離は、1200Km程だと思われます。しかし実際に運んでくる道は、2000Km程度になったものと思われます。

工場労働者による巨大な蒸気釜の運搬                         蒸気釜の大きさに驚くと共に、エ場労働者の多さに驚かされます。自貢では製鹽業が、一大巨大産業となっていたことが一目瞭然。

当時イギリス辺りから輸入して自貢迄運んで来るには、膨大な日数を要したものと思われます。                                        実際の陸揚げ地は何処か不明ですが、香港だったと仮定しても、人力や船以外にこれと言った輸送機械が無い時代に、延々2000Km余りをこうして運んでくることは、想像を絶します。 言い換えると小さな蟻が、個体の何百倍もの大きい餌を沢山の仲間と共に、苦労を物ともせずに遠い巣まで運ぶ姿に似ています。

まあそれでも、仮定の話ではありますが、2000Kmの道のりを1日に2Km日が明るいうちの労働と考え、1日が8時間の運搬作業とすると、2000m÷(8時間×60分)≒4.2m/分]進むと仮定すると、1000日が必要となります。という事は、365日で割ると 2.7年という数字が出て来ます。仮に半分の2.1m/分としたら、約5年強という数字になります。   万里の長城を作り上げる民族であることも思い浮かべると、人海戦術を得意とする中国では不可能では無いとは思います。

ただ私は、香港から自貢まで実際に徒歩で運ぶ可能性に漠然とした疑問を感じていましたが、突然『南船北馬』という言葉を思い出し、改めて黄河や長江について調べてみることにしました。
そうしたところ、長江を調べる中で、ウィッキペディアの以下の文章が目に留まりました。

『宜賓(市)から湖北省宜昌市まで、四川盆地や三峡を流れる長江上流は、四川を流れることから俗に「川江」と呼ばれる。険しい山岳地帯を流れてきた源流部とは違い、宜賓より下流は流れも緩やかになり、船の航行も可能となる。宜賓からは四川盆地の南縁を流れ、重慶市に達する。重慶は南西から流れてきた長江と北から流れてきた嘉陵江が合流する地点に発達した都市であり、四川盆地西部の中心都市として、また大型船舶の終着地点としても重要な役割も果たしている。                                     三峡ダムの建設によって、それまで3000t級の船しか遡上できなかったのが10000t級の大型船舶まで重慶に航行できるようになり、河港都市としての重慶の重要性はより増した。』

川幅の問題や川の深さの問題等で、重慶(重庆)の西に位置する自貢までの河川輸送は無理だとしても、直線距離で170Km程度しか離れていない重慶迄であれば大型船で運べることを確信致しました。

    2枚の写真からも重慶市が長江の上流にあり、市の中を大河が流れているることが分かります。ウィッキペディアで関係する箇所を抜き出し、要約すると次の通りです。

現在中国に4つある直轄市(上海市、北京市、天津市、重慶市)の中で最大の面積を誇り、北海道よりも広い面積の市である。市の人口は3000万人近く(中国で13番目の大都市)で、特に都市部の人口は、800万人。

重慶市は、盆地にあるため特に夏は酷暑であることに加え、水が豊富な長江流域にあることから湿度も高く非常に蒸し暑い。日中は猛暑日となり、最低気温が30度を下回らないことも珍しくない。だから長江流域の武漢、南京と並んで「中国の三大竈(かまど)」と呼ばれています。

中国の物流の大動脈である長江沿岸に栄えた重慶は古くから水運が発達していたが、三峡ダムの完成後は1万トン級の船舶も直接重慶まで航行することができるようになり、併せて整備される保税区との相乗効果で重慶港は内陸の国際コンテナターミナルとして大きな発展が見込まれている。

この様な事実からして、蒸気釜を海外から運んでも沿海部で陸揚げしないで、直接上海の河口から重慶まで船で遡ることも出来る為、輸送日数は最初に頭に浮かんだ方法からすると、大幅に短縮出来そうです。ひょっとしたら、重慶よりも更に自貢に近い所に船を接岸出来たかもしれません。

全行程の日数や詳細なルートは分かりませんが、『重慶或いはより自貢に近い船着場までは船で運び、それから先を写真の様に、沢山の工場労働者を使い運ぶ。』きっとこの方法で運んだものと確信しました。

再び話を蒸気釜を運ぶ写真に戻しますが、写真を見ていて、大半の人々が素足であること、肩に架かる重さを耐え忍ぶため、左手に杖を大半の人が持っていること(そう言えば日本では江戸時代に『駕籠舁(かごかき)』が杖を一本持っていたので、重いものを背に背負う場合の万国共通の担ぎ方かも知れません。)、釜の前方に1人全体を指揮している人と思われる人物が写っていること等が分かります。                                            左側にいる人は、傘があることから警官と思われます。何れにしても、こんなに巨大な機械を持ち込むことは、自貢での一大イベントであったことに間違いありません。

翻訳すると蒸気釜となっていますが、蒸気釜に鹽水を入れて蒸発させるものに使ったものでは無さそうです。鹽だと釜の金属が腐食するのが早いのですが、腐食を防止するため人が中に入って作業する構造にも思えません。という事は真水を入れて外から熱を加えて蒸気を発生させる、言い換えると蒸気の力を生み出すための装置と思われます。             それにしても余りに巨大なため、当時の工場作業員が驚愕する程の、パワーを生み出したものと思われます。

地下深くにある鹽水を汲みあげるため、工場内に置かれたウィンチ(ロープの巻取機)    これだけの設備からすると、かなり深く掘った井戸から鹽水を汲み上げていたものと思われます。写真の中では、最新のタイプと思われる。

蒸気で鹽水を汲みあげロープを巻き取る機械(ウインチ)

下の写真もそうですが、どちらにも車のハンドルのようなものが写っています。下の写真ではこのハンドルの様なものを操作して稼働させていたことが分かります。

機械の右横に、洋風のコートを着た人物が2人ほど見えます。              工場の経営者か、外国人の機械操作方法の説明者か、何れかだと思われます。       当時の上級役人や金持ちの鹽商人の中には、一般人との差別化のためかヨーロッパの人々の真似をして、ネクタイをしたり、帽子を被ったり、コートを着る人も散見されました。

工場の作業員が、ウインチ(手前)と蒸気機関(後方の白くなってメーターが見える機械)を繫いで稼働させている。蒸気機関を稼働させる燃料は、天然ガスと思われる。         もう少し、広角で写真を撮って貰っていると、ウインチと蒸気機関との接続具合がわかるのですが、現状では仕組みの解明が出来ません。それにしても、人力や牛力に頼っていた一寸前の時代と比較すると、生産効率では雲泥の差だったでしょう。               現場の労働者も力仕事から解放された為か、悲壮感も無く、なんとなく余裕が感じ取れます。

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