自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い (6)-G

鹽の輸送

発足間もない中華民国にとって、塩の専売化による大きな収入は、外国から戦費資金を借入れの際の担保としても非常に重要でしたが、当時の中国で最もよい塩は四川の鹽であり、更に四川の中でも自貢の井鹽が最高品質の塩でした。
また自貢の井鹽は、現代で言うと四川省、湖南省、湖北省、雲南省、貴州省等内陸で長江の
支流となる地域も含め、省や県併せて200以上の地域に売られて行きました。                  明・清時代から中華民国統治時代にかけては、自貢の井鹽だけで、中国の人口の1/10の人々が食用として消費しました。

自貢の市街地を流れる『釜溪河(フーシーホゥ)』は、全長67Kmで『沱江(トウジャン)』の主要な支流となっています。
その『沱江』は、四川省東部を流れる全長655Kmの河ですが、更に大きな河である 長江(チャンジャン:全長6300kmのアジア最長で世界第3位。)の、左岸側の支流となります。

馬の背に載せて麻袋や竹籠に詰めた井鹽を運ぶ以外、最も効率的で経済的な方法は、舟を使い『釜溪川』から運搬する方法でした。
ですから次の写真のとおり、自貢の市街地を流れる『釜溪川』沿いの上沙湾の辺りには、停泊中の舟が沢山見られました。


清朝時代の1697年(当時日本では五代将軍徳川綱吉治世の頃)には、『釜溪川』の川幅拡大工事を行ったことから、舟での輸送の比重が高まり、清朝初期の頃で自貢の全鹽生産量の70%を、清朝後期には80% 、そして日中戦争当時は90%以上にまで拡大しました。

『釜溪川』は、夏から秋にかけて降雨量が多いため水嵩が増し、舟の行き来には支障がありません。しかし降雨量が少ない冬と春は、川底が浅くなることから、舟の行き来に支障が出ていました。
このため『釜溪川』上流に堰を作り、水を満々と蓄え十分水を貯えたら、一気に堰(せき)を切る。
こうすることで、沢山の鹽を積んだ舟(本には1100隻と書いてありますが、果たして1日にそれだけの舟を出帆させられるのか ? )が一斉に船出すると、全長67Kmの『釜溪川』を1日で下り『沱江』に達したとのことです。
堰(せき)を切る日が周知される様、役所は市中の掲示板に堰を切る日時を掲示します。
堰を切る当日、即ち舟が一斉に押し流される日は、地元の人々がこぞって堰の両岸から見送り、お祭りの様な賑(にぎ)わいとなります。                                                                堰を切る迄と言う極めて限られた日数のなか、地元には短期間で鹽の販売で沢山のお金が落ち懐が温まる時期でもあり、住民にとって旧正月前の大晦日に次ぐ街が賑わう大事な日でもありました。

しかし時が過ぎ、列車やトラックや大型運搬船等の運搬手段の進歩や多様化、更には海外からの安い塩の流入により、当時主役だった舟は、時代と共に次第に消えていきました。           ただ幸いにして『塩業歴史博物館』には縮小した模型が展示されており、またここにも写真を掲載しましたので、当時の舟を想い起こすことが出来ます。

『沱江』に帰着する『釜溪川』とは言っても、途中には舟が転覆しかけない程の急流,険しい瀬,曲がりくねった狭い川幅等が待ち受けており、舟を操縦するのも大変でした。
このため困難な川を行き交うに適した、特徴ある舟が作られました。
即ち、舟の船首部分は多少左側斜めに寄せ、逆に船尾部分は多少右側斜めに寄せて作られています。(全体としては、多少ねじれた形の船形になります。)                                            これにより、川岸や船同士の衝突を避けると共に、また仮に衝突したとしても衝突時の衝撃を上手く和らげることが出来ました。
特に降雨量が少ない冬と春は、水深が浅く川幅も狭くなるため、上りと下りの舟が衝突した場合、鹽を積み込んだ船は現代の車社会と同様に、渋滞を余儀なくされたりしました。           この様な事態を防止する意味でも、ねじれた形をした舟の運行は円滑な運搬に役立ちました。また事故防止の為車の運転と同様に、進行方向に対して左側運航のルールも決められました。

舟の全長は約14m(4丈2尺)、船底の幅は約2.3m(6.8~7尺)ですが、艪(ろ)の長さが舟の全長より長い約16m(4丈8尺)もあることもあり、歴史書の中には『艪舟』という記述も、見られます。
舟の船首と船尾を除く部分は、全て鹽の積載場所となっていますが、細かく言うと、これらは6区画に分かれその全てが幌(ほろ)を付けて、突然の降雨にも対応出来るようにしています。
但し舟の中央部分にある2区画だけは幌の取外しが出来なく、残りの区画は全て取外しが可能です。                                       舟の安全性を確保する為だと思われますが、1艘(そう)の鹽の運搬量は上限を450袋で、重量を5トン(?)前後に制限していました。

【重量が9万斤~10.8万斤と本には書かれていますが、      http://www.allchinainfo.com/trivia-of-china/4841で、見ると、            1斤=1Kg(公斤・現代) 1斤=0.5Kg(市斤・現代),1斤=0.59Kg(明、清)とあるため、仮に1斤=0.5Kg(市斤・現代)を採用した場合、小舟1艘で50トン前後も運ぶことになるため、この様な数字は有り得ません。                                そこで私は、本に書かれた単位の万斤は、千斤の誤りではないかと判断致しました。】

ところが、450袋と5トンと言う数字のアンバランスが気になり、現在使われている50tトラックの大きさを、今日(12/12)調べてみました。そうすると以下の様になります。

 この50tトレーラの積載部分を抜き出し、概略の寸法を書くと16m✕3m×高さ0.9mです。 一方舟は、14m✕2.3m×高さ ?m であり、更に非常に固まった鹽は水の2.16倍重いとの  記述もネットで見つけましたので、舟の容積からしても鹽を50tを運ぶには十分と判断されます。単純な思い込みだけでは、見誤りますね。

そこで改めて舟が沢山停泊している①の写真をよく見ると一番手前の舟の付近で、積み込みしていると思われる人が2人程写っていますが、舟の大きさに比べてかなり小さく見えます。 艪も異常に長い上、太く感じられます。という事は単純に私が想う以上に、大きな舟だった様です。                                       写真では停泊している舟の数もかなり多いため、(云わば、50トントラックが沢山待機していると同じ状態で、)かなりの鹽が川を下り、運搬されたことでしょう。

自貢では、鹽の輸送に携わる人々の既得権益を守るため運搬業者が集まり、『橹船帮』という組織を作り、『行帮会館』等の建物を建設しました。さらに河川運航の安全祈願のため『王爺廟(寺) 』も作りました。
王爺廟(寺)の建設は、清朝の半ば頃、釜渓川の中でも流れが急になる所に水運の安全祈願を目的に、人々が『鎮江王爺』を川の守り神として祀(まつ)ったのが始まりと言われています。

その後幾つも作られた王爺廟の中でも、規模が大きく特徴的なのは中区の王爺廟で、廟(寺)の中を大きな路が通る構造で、正殿の両脇にある偏殿、さらに歩くと楼、劇場、井戸などがあり、一組の完全な建築群でした。
しかし今は、運輸商人が塩商人と交渉した運商会館や川劇の舞台となった劇場など限られた残建物しか残っていません。
毎年旧暦の6月6日は、治水の神様『鎮江王爺』の誕生日であることから、各お寺では華々しくお祭りを行いました。祭りの開始時は、各舟もお祝いの旗を掲げ、自貢の街々では人々の爆竹が鳴り響き、また夜は楽器が演奏されたリ、演劇もあちこちで開催されました。

四川の商人や職人が創り上げた会館文化が、自貢の釜溪川沿いの古い街々には残っています。
清朝の乾隆年間初期に始め、陝西省(せんせいしょう:四川省のすぐ北に位置する隣の省,省都は西安市で秦の始皇帝の兵馬俑等がある。)の塩商人たちが、1736年から16年の歳月と5万両の銀を費やし陝西省の人々の集会場所として、自流井区(旧称老城区)の解放路沿いに、武聖宮(別名は 関帝廟: 中国後漢末期に劉備に仕えた武将の関羽が神格化され祭られた寺)の中に、西秦会館を造りました。
更に1959年には、西秦会館の中に、中国唯一の専門的な鹽博物館である『鹽業歴史博物館』が併設されました。

上の地図の黄色のマーカーで示した場所に、武聖宮がある。敷地内には西秦会館や『鹽業歴史博物館』がある。


同博物館は、国の重要文化財にも指定され、ここで当時の資料と生産工具を展示し、井戸を利用した塩生産の長い歴史とその生産技術の発展を学ぶことができます。
武聖宮の敷地内には、清の宮廷様式と民間様式が融合した様々な建物が立ち、精巧な木彫りや泥彫り、彩色絵画などで装飾され、塩文化の歴史だけでなく昔ながらの雰囲気も満喫できます。

この写真は、武聖宮の中の西秦会館や『鹽業歴史博物館』を、川の方から写した写真 ➀と②の位置から写したと思われる写真は、後に出て来ます。

上に写真を3枚掲載しましたが、現在と比較して、川の水位の違いに驚かれていることかと思います。

現在は満々と水を湛(たた)えていますが、これは飲料水、工業・農業用水として水を使うために、川が堰(せ)き止められている為では無いかと思われます。                                         私が自貢に行った時も、川の水はどちらか一方に流れている様子はなく、湖の様でした。

2番目の写真では、川の淵が分かり難い為、私の方で薄青くマーカーを塗りました。    3番目の写真を見ると、川の右岸に沿って船溜まりが出来ていたことが良く分かります。

1番目の写真と比較する度に、今は亡き水面の下に沈んでしまった過っての繁栄が偲ばれます。昔の面影を残すものと言えば、1番目及び2番目の写真で見える大きな建物は武聖宮で、中には『西秦会館』と『自貢市鹽業歴史博物館』の建物があります。           それから2,3番目の写真と最初の現在の写真とを比べると、写真を撮影した位置は異なるものの、『武聖宮』の直ぐ後にあった低い山が、自貢市の開発により、完全に消失しています。

3番目の写真では、細くて非常に高いマスト(蘭: mast:帆船の甲板に帆を張るために立てられた垂直棒のこと)が沢山見えますが、これに帆を張って風を頼りに動かしていたことも分かります。

私がこの写真に小さく①と後の写真に②と書きましたが、2番目の写真の中にも、①と②を書き込みましたので、写真が写された方向を確認して頂ければ幸いです。

直ぐ上の写真では、なぜかマストではなく、長いオール(櫂)が目立ちますが、舟を係留する為に碇(いかり)代わりに使っていたのではないかと思います。

いろいろ調べた結果、北岸にある『還我河山(ホアン  ウオ ホー シャン)』(意味は、我に国土(山河)を返せ。)の文字は、自貢の富裕な商人から戦費の寄付を受け取ったことをきっかけに、国民党軍の著名な軍人である※馮玉祥(フウギョクショウ)が、親筆を認(したた)めたものです。この言葉は、中国の国土を掠奪した満州国と後ろで糸を引く日本への挑戦状で、抗日戦線の標語になりました。

※[1882~1948]中国の軍人・政治家。国民党に入り北伐に参加。反蒋介石運動を起こし除名された。抗日戦争中に復党したが、1946年に米国で反蒋を声明。           1948年共産党主催の中国人民政治協商会議に参加するため、アメリカからソ連船で帰国の途中、黒海オデッサ付近で乗っていた船の火災のため死去した。

更に『還我河山(ホアン  ウオ ホー シャン)』という言葉について調べるうちに、『岳飛』という人物に関係する言葉ということが分かりました。                                                       南宋の武将『岳飛』は、1122年義勇軍として参戦し,南下してきた金軍との交戦や国内の反乱軍鎮定に功をあげた救国の民族的英雄として、今なお尊崇されおります。                          1122年は、日本では当時、平安時代の終り頃で平清盛が力を持ち始めた頃です。

下の写真の通り、この英雄を祈念して作られた座像の上部には大きく「還我河山」と書かれており、元々彼が発した言葉と思われます。

杭州市の西湖の西北湖岸に南宋時代1221年創建(建物は1923年に再建)の岳王廟(岳廟)があります。

鹽を舟で積み出すために、馬に積んで川岸に運び込む様子、舟に積み込まれた鹽など、活発な活動状況が見て取れます。手前に3つおかれた円盤状のものは、(6)-Eの写真にあった鹽の塊の写真と同じものではないかと思われます。

写真の様に馬と船と人力の世界、林立するビルや慌(あわただ)しい車社会と不快な騒音の現代とを比べると、昔の方が何となくのどかさと、そこで生活する人々の温かさを感じるのは、私一人でしょうか? 人力の提供は嫌ですが、タイムカプセルでの旅行が可能であれば、訪れて見たい気がします。

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