自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い (6)-H

鹽管理役人と鹽商人

鹽は、生活必需品の一つであることもあり、周時代(紀元前11世紀)の初めから、政府の仕事として鹽の管理が始まりました。
特に中華民国時代(1912~1949)、国民党による統治されていた四川地方においても、軍閥に実効支配される地域が存在していたため、鹽売却によって得られる鹽税を両者が奪い合う形となっていました。

1937年4月国民党政府は、組織を改編し自貢に『四川鹽務管理局』(下の写真)を作りました。

写真右側のスーツを着ている缪秋杰(ミャオチユウチェ)は、1937年4月より1939年11月迄初代四川鹽務管理局局長を歴任した有能な人物で、新鹽井の開発、天然ガスの利用拡大や練炭の普及による燃料不足の解決に力を注ぐことから、ミャンマーの陸路を通じた鹽井開発の為の金属資材(鉄くぎ、鋼製ロープ等)の輸入、香港からのトラック等の輸入、更には250艘もの木造船の新造等に貢献しました。                         これらの生産拡大の為の施策と鹽販売先の拡大により税収も大幅に増加し、このお金は、日中戦争の支援金となりました。                             写真左側の人物は、冨栄東場公署の責任者である鄭福楠(デンフーラン)です。

天車の櫓の前に立つ孫明经(ソンミンジン)                       地上近くの櫓の足1本ですが、足の大きさが大きいのには、驚かされます。また鉄くぎも使われていない様ですし、ロープの絞め付け方や横木での補強など興味深いものがあります。  基礎部分の全体像の写真が無いため分かりませんが、横木は4本足全てに使われていたものと思われます。
手許にある広西師範大学出版社発行の『至る所に鹽井が見られる市』の本には、孫明经(ソンミンジン)が撮った写真が沢山掲載されていますが、これは缪秋杰のサポートによるもので、彼は自由に鹽業の関係者から話を聞いたり、いろんな現場で撮影することが出来ました。
前述の缪秋杰は、彼に沢山の鹽業に関する本やコピーした資料をプレゼントしましたが、その量は積重ねると厚さ70cm近くの量になりました。                   彼は身に着けた鹽井の知識をベースに、写真撮影や記録映画(『自貢井鹽』,『井鹽工業』と言った作品に結実)の撮影を行いました。

その後『四川鹽務管理局』では、井鹽の質の維持、正確な重量測定、鹽税の徴収、井鹽生産や販売に関するトラブル防止、更には専売鹽の抜け道販売の防止等を 目的に『冨栄東場公署』と『冨栄西場公署』が設置されました。                        この2公署では更に出先機関を整備して、きめ細かい管理を行いました。

日中戦争当時技術革新もあり、四川の鹽生産量の増大に比例し、鹽税による(中華民国の)政府収入も増えて行きました。
このため、四川鹽務管理局の役人の社会的な地位も高く、給料も並外れていた様です。   生活に余裕があると思われる点は、孫明经が撮った四川鹽務局の役人が当時の最新の流行服を着こなしていることからも、明らかです。

例えば四川鹽務管理局の役人の写真がありますが、長いワンピースの様な服『長衫(チャンサン)』の下には、長ズボンと靴下をはき、手には帽子を持っています。また写真では、帽子で隠れて見えないのか分かりませんが、ポケットには万年筆を挿しているとの説明があります。 この様な服装は、当時でもお洒落な部類に入っていた様で、この為写真を撮られたのでしょう。

また四川鹽務管理局の役人の別の写真を見ると、正装の『中山装(ゾンサンゾアン)』を着て、胸には四川鹽務管理局のバッジを付けていた様です。                  上の写真ではバッジが見えないのですが、最初から2番目の写真の缪秋杰の胸に付けていたバッジと同じものと思われます。                           『中山装』は色もいろいろある様ですが、毛沢東や北朝鮮の金正恩が着用しているものと言えば、分かって頂けるかと思います。                          写真の左肩に深灰色と書かれていますが、他のネットからコピーしたものなので、実際の四川鹽務管理局役人の制服の色が何色かは、書かれていませんので分かりません。

四川鹽務管理局役人の住宅として建てられたものですが、当時としては、高級住宅であったことが理解できます。

1923年に張伯卿と云う人が建てた自宅。                        大きな庭園を有する洋式建物ですが、ドイツ領事館の建物に似せて作ったものと書かれています。建築様式は、ローマ式としか書かれていませんので、似た建て方を探していたら、バシリカという建築様式に行き当たりました。                        当時自宅の機能以外に、鹽取引の集会所や一族の会議室として使われていたと思われます。

マクセンティウスのバシリカ 末期ローマのバシリカ

バシリカ【basilica】                                ① 古代ローマ時代、裁判・商取引などのために建てられた長方形の集会所。        ② 初期キリスト教会堂の形式。① の前面に玄関室と前庭を付し、内部は列柱で身廊と側廊に分けられる。

また鹽井の積極的な開発、鹽生産技術の進歩、天然ガスの利用拡大、国内での販売先の広がり等は、鹽商人にも大きな繁栄をもたらしました。
即ち鹽商人は、一族が鹽商族と呼ばれる富裕層の一団を結成する迄に繁栄しました。           清朝(1616~1912)の前期には、『王』、『李』、『胡』、『顔』が4大鹽業の一族を構成し、資産は各商族とも100万元を超えていました。                  今日において、彼らは『旧4大家族』と呼ばれています。

1850年代には、代々役人をしていた一族、代々資産家だった一族に加え、投資家、外資を集める投資家など、僅か20~30年で数十万元をもつ中小鹽商人になった人々もいました。

日中戦争(1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)迄、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争)当時、即ち清朝後期には、『熊』、『侯』、『羅』、『羅』の『新4大家族』の 一族が隆盛を極めました。(新4大家族に『羅』という名字が2つ出て来たため、最初本の誤字とおもいましたが、『熊』、『侯』、『羅』、『羅』が2ヶ所出てくるため、私は、『羅』と『羅』は別の大家族と見做しました。)                                                                          ただ彼らは『旧4大家族』とは異なり、井鹽製造の現場で働き学習した貧乏な出自の人々で  したが、『丘二帮』という大家族の利権を守る組織を作り、非常に金持ちになりました。

軍閥も割拠し、また日中戦争も勃発する中、国民党政府が十分な管理を行えなかった為か(具体的にはその理由は書かれていませんが)、『新4大家族』の一族が自貢の鹽井取引を支配したとの記述もあります。                                 以下の写真を見て頂ければ分かりますが、井鹽製造現場の作業員の生活とは隔世の感があります。

右端だけは孫明经(ソンミンジン)の助手で、他は、熊一族、侯一族等の鹽商族の面々。

右端は孫明经(ソンミンジン)。その他は、熊家、侯家等の鹽商族の面々。         左から2番目の人物は、缪秋杰(ミャオチユウチェ)と同じ、四川鹽務管理局のバッジを付けている様なので、役人と思われます。

ある鹽商人の豪邸の庭の一部。                            正面の2本の柱には、『万里因循成久客,故乡无比好湖山』と書かれているそうです。   漢詩の素養が無いのでハッキリとは分かりませんが、「はるばる遠くから来てくれた久々のお客よ。私の庭先から見える湖や山々の景色から、長らく帰京されていないあなたの故郷の美しい湖や山々を思い出されるのではないでしょうか? 」と言ったところでしょうか?

この漢詩を訳するに当たり、当初私は豪邸の持ち主が庭のこの位置から眺めた風景を自慢して「はるばる遠くから来てくれた久々のお客よ。私の庭先から見える湖や山々の景色は、あなたの故郷の美しい湖や山々と比べても、勝(まさ)っている景色ではないでしょうか? 」と訳しました。しかし何となくシックリいかない気がしていた為か、寝て夢の中で、訳が間違っていると言う指摘を受け、指摘者の云う様に最初の訳に変えました。              しかし、本当のところは不明です。

故乡」は簡書体ですが、繁書体で書くと「故郷」です。即ち『乡』の字体は、『郷』の一番左の編だけを一字としたものです。

下の段から2人目のワイシャツにネクタイ姿の人物は孫明经(ソンミンジン)の助手。     長いキセルや八ミリ撮影機と思われるものを持ち撮影している人たちは、鹽商族。     一番下の段の人物の個人宅を訪問した時の写真と思われます。              写真の左端の若い人物は、同じく孫明经(ソンミンジン)の撮影助手と思われます。

李敬才という大鹽商の自宅。                             洋風の建物に、中国古来の瓦を載せた建て方は、中洋折衷と言ったところでしょうか。

日中戦争(1937年(昭和12年)から1945年(昭和20年)迄、中華民国と大日本帝国の間で行われた戦争)当時、鹽商人達は金品を供出して、戦争を支援しました。
1944年6月国民政府軍事委員会副委員長の『馮玉祥(フウギョクショウ)』将軍は、  第2回目の救国寄付活動を起こしましたが、35日間で600万元もの鹽商人達からの寄付を始め、個人寄付として2名からそれぞれ1200万元、1000万元の寄付を受けました。

一応、広西師範大学出版社発行の『至る所に鹽井が見られる市』の本をベースとした話[(6)-A~(6)-H]は、これで終りとします。                        中々本に書いてある文章が理解できずにスカイプで仲間に問い合わせたり、殆んど役に立たないネットの翻訳ソフトを使ったり、自分自身であれこれ考えたりして悪戦苦闘しました。  ブログへの書込みも中々筆が進まず、何回も更新されないブログをチェックされた読者の方々には、申し訳御座いませんでした。

ただ私自身、未知のことを知り、調べることで少し頭の引出しが膨らんだ感じがしています。また近代科学の恩恵について、過去僅か100年程度でも隔世の感を感じることから、科学の進歩が速すぎる今日、コンピューターのAIやビッグデータ等が生み出すこれから10年或いは20年先の世界を、予想することすら出来ないという事を、再認識させられました。           『自貢(ズーゴン)への誘い』を読まれた皆様は、どの様に感じられたでしょうか?

『自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い』については、来年の(7)で終わる予定ですが、最難関の(6)を終え、今はホッとした気分です。

2017年の年末となってしまいましたが、皆様もどうか良いお年をお迎えください。

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