峨眉山の思い出  (1)

少しタイトルにした峨眉山(ウォメイシャン)の話から外れますが、これから後の展開にも関係する為、最初に私が桂林から出て、成都で働くこととなった関係者について書きたいと思います。                                        しかし関係者の名字が3人共全てという名前の為、読者には分かり難いと思いますし、個別の名前は知らないため、名前の部分をアルファベットで書きたいと思います。

李Aさん(30代の女性)・・・・旅行関係の仕事をしている。桂林では、彼女の小学生の息子に日本語を教えたことがある。このことは、ブログの別の箇所で書きました。       彼女は、既に桂林を離れ、李Bさんの下で成都の宝石店で働いていた。

李Bさん(30後半~40前半の男性)・・桂林出身だが、成都のM社長の下で、彼の右腕として働いていた。

李C社長(50歳前後?)・・・・・・・私が成都で務めた会社の社長。                               国内外の観光客相手に成都と九寨溝(ユネスコの世界遺産(自然遺産))で、レストラン、宝石店、茶荘、土産物店等を経営。                                                                                 変わったところでは、成都で劇団を持ち、『川劇(せんげき)』を公演している。           本ブログでも『自貢(ズーゴン)への誘(いざな)い (1)』で川劇について、少し触れている。

M社長(50歳前後?)・・・・・・・会社のショールームを青羊区から武侯区に移した時に、 オープンパーティでたった1度会っただけ。多忙で、成都を不在にすることも多いらしい。 パテーィでも無口な人で、自分から積極的に話す人ではなかった。            職場の仲間の噂話では、四川省の寺院相手に、仏具(曼荼羅、坊さんの正装衣、線香・ローソク、仏像等)販売でのかなりシェアーを持って卸しているとのことで、四川省でも有名な金持ちとのこと。                                     また峨眉山の各寺に付随して建てられている建物では、内外の観光客相手に土産物が販売されている。彼は峨眉山での土産物の独占販売権を得ており、峨眉山では寺の数以上の沢山の店舗を経営している。                                  ただ寺院への卸や峨眉山での土産物の独占販売権を得るに当たっては、親兄弟と骨肉の争いがあったとの噂話を聞いた。李Bさんは、この利権争いでM社長の信頼を勝ち取り、右腕となったらしい。(『親兄弟と骨肉の争い』という話を聞くと、日本でも一世を風靡したスーパーダイエー中内社長の、身内である親兄弟との争いを想い起こさせる。)                                         成都市内でも、宝石店、茶荘、シルク店等を李C社長と同じく、国内外の観光客向けに経営している。業種は不明だが、北京でも事業を展開しており、北京にも別宅があり中央の役人や党幹部との交流もあるらしい。

長年李C社長と李Bさんの会社(言い換えるとM社長の会社)とは、成都でお互い内外の観光客の奪い合いをやっていた様です。(他にも1,2社あった様ですが、この2社が大規模に多店舗展開していましたので、2社の成都での影響力は非常に大きいものでした。)         しかし両社が互いに競争する中で、無理に自社側へ団体客を呼び込む為には、旅行ガイドや旅行会社へ支払う人頭税(本来の税金の意味とは異なる。観光客が店での商品購入の有無に関わらず、店側は引率する旅行会社やガイドに対し、顧客1人につき一定額を支払う制度)アップの競争に勝ち抜くしか方法がなく、このため両社共に、経営が厳しい状況にあった様です。

そこで李Bさんからの提案で、共同して旅行ガイドや旅行会社にあたり、人頭税を出来るだけ低く抑える事を考えた様で、1方は宝石店を成都で経営することを止める等、両社で出来るだけ競合しない様に店舗を整理した様です。

私が成都に移る数年前に両社で合意が図られた様で、李Bさんは同郷の李Aさんを勧誘し、M社長が経営する成都の店舗へ呼び寄せました。                      私は桂林で、李Aさんとは一緒に働いたことはありませんが、人を介して知り合い、また息子さんを短期間ではあったものの、日本語を教えていたこともあったため、李Aさんから私にも成都で働かないかとの誘いがありました。                       前後して大連や北京からの誘いもありましたが、2回も李Aさんと李Bさんが桂林に来て誘われた事もあり、取敢えず成都の職場を見学したいと思いました。

ところが、成都に行って初めて分かったのですが、私が勤めるのは、李Bさんの会社ではなく、李C社長の会社でした。その時は両社で業務内容がダブらない様に調整していたなんて思いもよりませんでした。                               ただ2回目に成都に出向いた時、私が持参した(労働)契約書を、李C社長が李Bさんの通訳の下で、真剣に読んでいるのを見て、この人なら約束を守ることが出来る人間と判断し、李C社長の下で働くことに決めました。                            なぜなら多くの中国人は、契約書の内容を十分に理解しないで簡単にサインし、契約書なんてタダの紙切れとしか思わないのか、約束を平気で破る連中ばかりだからです。       私は成都で与えられた仕事に関しては、店長として人事、従業員の給与を含め、全権を握りました。                                       また李C社長の特別の配慮で、運転手付きで自由に車を使わせて貰うことになりました。

成都での2年目の夏、妻が成都に来たため、別の箇所で書いた『成都ジャイアントパンダ繁殖研究センター』と共に、成都の南側に位置する『峨眉山』に登ることにしました。

万佛頂(標高3,098メートル)

(峨眉山登山地図)

『峨眉山』をウィッキペディアで検索すると、次の様に書かれています。

峨眉山(がびさん、)は中国・四川省にある山である。                 道教や中国の仏教で言うところの聖地で、中国三大霊山(五台山、天台山、峨眉山)や中国 四大仏教名山(五台山、九華山、普陀山、峨眉山)の一つである。            26の寺院を有し、普賢菩薩の霊場とされる。                      一帯は聖地となっていたために自然が護られ、約3,000種の植物と、絶滅危惧種を含む約2,000種の動物の宝庫でもある。1996年12月6日には文化面、環境面両方が考慮され、楽山大仏と共に「峨眉山と楽山大仏」としてユネスコの世界遺産(複合遺産)に登録された。

一番高い峰が万仏頂(標高3,098メートル)で、頂まで32の名刹(由緒ある寺)が続いている。後漢時代から仏教施設の建設が始まり、南宋時代に最盛期を迎えた。           現代最大の寺院は登山口にあたる報国寺で、明代1615年(万暦43年)に明光道人が創建したとされている。

(加筆)後漢時代は、AD25~220年で、日本では弥生時代後期で、卑弥呼が生存していたのもこの時代。南宋時代は1127~1279年で、日本では平安時代の後期にあたる。

(報国寺の入り口の門)地図では、(見にくいのですが)左下の報国寺550mと書かれた所。

( 報国寺僧侶による「 諷経(“ふぎん゛と読む読み方が多いが、”ふうぎん゛とも読む)」 )

ただ私がウィッキペディアの説明で非常に気になるのは、26の寺院とか32の名刹とか数字が一定していないことです。この峨眉山のブログには載せていませんが、現地で実際に見た案内板の地図では、倍近い数の50前後の寺が書かれていた様に記憶しています。

ではなぜ数字が異なるのか、その理由は、峨眉山では2世紀以降から少しずつ寺が建立(こんりゅう)されており、時代を経る中で廃寺となったり、焼失したりして来たため、現状でも実際に殆んど管理されなくて、荒れるに任せた寺をカウントするかどうかで、結果が異なる為ではないかと思われます。

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