気になった料理店(3/13追記)

会社が青羊区から武甲区に移る前のことですが、会社や住んでいるマンションから歩いて30分程度の所に、成都の観光地としても有名な杜甫草堂があり、一度ここへ行きました。

杜甫草堂の敷地の面積は、調べたところ、日比谷公園の6割程度の広さがあります。    しかし、近隣の川から水を引込んだ池などが幾つか見られ、また敷地が幾つもの塀で区分けされています。

区画ごとに変化に富んだ植栽を見つつ、曲がりくねった道を歩くことから、感覚的には日比谷公園より広く感じました。

ウイッキベティアに、杜甫草堂の概要が書かれていますので、以下をコピーしました。[759年、杜甫は安史の乱(別名;安禄山の乱)が原因で、成都への流亡を余儀なくされた。そこで親友である厳武の援助を得て、浣花渓の近くに茅葺(かやぶき)の小屋を建てた。杜甫はそこで4年間の生活を送った。『茅屋為秋風所破歌』『蜀相』などの名作も、杜甫がこの成都滞在中に作ったものである。杜甫が建てたオリジナルの草堂は戦火に見舞われ、現存する建物の多くは1500年と1811年のものである。]

写真は、

https://search.yahoo.co.jp/image/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=%E6%9D%9C%E7%94%AB%E8%8D%89%E5%A0%82

の中のどれかをクリックすると、スライドでご覧頂けます。

759年というと日本では奈良時代になり、万葉集の歌が詠まれた時代です。杜甫が移り住んだ頃の建物は、僅か4年しか住まなかった一棟のわびしい佇まいだった様ですが、有名な詩人であったことから、訪れる人も多かったのでしょう。日本の5重の塔の様に綺麗ではありませんが、高楼もあり後の人により建増しされて現在に至っています。他にも何ヵ所かの出入りする門付近を始め、写真の通り、いろんな建物が建てられています。

昼を過ぎ杜甫草堂の敷地を出て歩いていたら、看板も何も無いのですが、落ち着いた雰囲気の店の前に来ていました。ただ幅の広い歩道の奥、20m程度先に店の入り口がありました。  何を売っているのだろうかと気になったものですから入って行くと、その店は中国料理の専門店でした。ただ私が知る中国料理店とは違い、金ぴかや朱色を多用した建物の作りではなく、外観は淡い薄黄色で、中は落ち着いた茶色を基調とし彩光にかなり気を使う中にも、非常に厳かな雰囲気の料理店でした。

店の中は、中央に琴が置いてあり、これを囲むように少人数用の席が配置されていました。  恐らく、夜は琴の演奏を聴きながら、ゆっくり食事をするのだと思われます。

別に個室もあるのでしょうが、4人以下の少人数のお客が座るイス席は10席ほどでしたが、 昼時でも2席ほどしか埋まっていません。

取敢えず、私も空いている席に座り、ウエイトレスが来るのを待ちました。何を注文しようかと思いつつ、メニューを探しましたが、メニューがありません。                                     ウエイトレスが来たので、メニューを持参する様に頼みましたが、ウエイトレスが持つIpadがメニューとなっているらしく、幾つかの料理の写真を見せて呉れました。                          ただ値段は書いてありません。話では必ずしも写真と全く同じ料理ではなく、季節の食材に置き換えるため、時価となるとの説明でした。

私は、自分の懐具合を考えると不安になりました。                   会社の交際費で落とせる社用族や、銀行が発行する使用無制限のブラックカードを賄賂として貰った役人等が、利用する店だったのかも知れません。                 私は、幾らお金を払ったらよいのか全く見当がつかず、また支払を考えると、食事の味もしないため、出ることにしました。                            店からは写真が沢山載り綺麗な小冊子となった案内を頂きましたが、日本に帰国する時、不要なものとして処分しましたので、皆さんへ店の雰囲気をお伝えできないのが、残念です。

会社に戻り、仲間にこのことを話すと、あの辺りは、普通の人々がお金のことを考えないで  気軽に入れる店は、少ないとのことでした。

因みに、近隣のお茶を飲む茶荘(チャソウ)の中には、多種の『一番茶』 (日本で言う一番茶とは異なり、中国の一番茶は、小枝から出たばかりの新芽の小さい葉、数枚を摘んだものだけを言うらしい。 この為一番茶の価格も非常に高く、殆どの一番茶が政府に買い上げられ、一般の人は殆ど飲むことが出来ないとのこと。) や『大紅袍』等の最高級の品質の茶を飲むことが出来る茶荘もあるらしく、こうなると私を含め、お金が無い一般人には全く縁が無い店となります。

恐らくこの様な高級な店に出入りできることは、一般庶民との比較において、一種のステータスになっているのかも知れません。

私は、改めて私が知り得ない世界が、中国にあることを認識しました。

武夷岩茶(ウイ イエンチャ)は、中国福建省北部の武夷山市で生産される青茶の一種で、茶樹が山肌の風化した岩に生育しているためにこの名がある。武夷岩茶の中には、自生している茶の樹及びその接木から作られる「大紅袍」などの著名な高級品もある。

大紅袍(ダーフォン パオ)最も貴重な茶葉。政府が管理している武夷山に自生するたった4本の茶樹から採取された第1世代は、一般に入手できることはまず無い。現在、一般に入手可能なものは、接ぎ木により生産された第2・第3世代の物である。

くわしくは、下記の記事をお読みください。http://www.asahi.com/world/china/cha/060301.html

大紅袍の逸話の中では、皇帝が病気になり、病気の回復の為にお寺の坊さんがお茶を出したと書かれています。                                  しかし私が成都の茶店の人から聞いた話では、科挙の試験を受ける為に北に向かっていた旅人(今でいう受験生)が高熱の病気になり、お寺の坊さんが薬草としてお茶を出したらすぐ回復し、科挙の試験に間に合った。その受験生は役人に任官され、その後出世し故郷に錦を飾ろうと帰郷する途中で、お寺に立ち寄り、お寺の坊さんにお礼を言った。           またお茶の木に感謝の気持ちを込めて、自分が着ていた裏地が赤色のマントをひっくり返し、1本の茶樹に掛けて感謝の意を表した。これが大紅袍と言う名のお茶のいわれだそうです。 他にも主役が、皇帝の母親で出てくる話もある様です。

旅人が飲んだお茶の木1本が、今日自生する古茶樹4本(6本と言う説もあります。)の木になったと言われています。                                                                                       私が昔、写真で見た茶樹は4本の中の1本だと思いますが、日本の茶畑の様に、球状に剪定した状態ではなく、古木である為か葉っぱも意外と少なく、柳や柚子の木の様に弱弱しく、上の方に木が伸びていました。

この文章を公開後に、古木の写真をネットで見つけましたので、追加で掲載します。    この写真では、古木が6本写っておりますが、石垣の上の4本が第一世代で、右端の2本が第2世代なのか、6本とも第一世代なのか、説明が無いため分かりません。           ここで人が茶摘みをしているのを遠くから撮った写真がありましたが、著作権の絡みもあり、こちらに載せるのを止めました。                           この茶摘み姿の写真で見る限り、古木の高さは2m前後だと思われます。         また以下の写真からも岩茶の中でも最高品質の大紅袍は、土が少なく痩せた土壌に育っていることが分かります。

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